Thursday, September 20, 2012

No.20120921千葉の名城

■大多喜城

「大多喜の中世の頃の地名は、資料の中に小田喜と見られますので、大多喜城も、その頃は小田喜城ないしは小田喜の城と呼ばれていたと思われます。
16世紀の前半代に武田氏が入城したと言われていますが、天文期(1532~1555)に安房の里見氏の重臣であった正木氏が入り、以後4代にわたり、上総正木宗家の居城として発展します。
その後、1590年(天正18年)に北条氏の小田原城が豊臣秀吉に攻め落とされると、徳川家康は江戸城に入り、小田喜城を家臣の本多忠勝に与えて安房の里見氏の勢力をおさえようとしました。
当 時の城のようすについて、1609年(慶長14年)にここを訪れたスペイン人のドン・ロドリゴは、「城は高台にあって濠に囲まれ、城門は大きく全て鉄でで きており、厳重に警戒されている。また、城の内部は金や銀の配色で美しく、立派な武器庫もあった。」(日本見聞録)と、驚いています。
城主は本多氏3代のあと、阿部・青山・稲垣氏へと引継がれ、1703年(元禄16年)松平(大河内)正久となりました。松平氏は9代続き廃藩置県を迎えます」
※千葉の県立博物館より

徳川四天王の一人として有名な本多忠勝は、天正18年(1590)大多喜10万石に封ぜられました。資料館には忠勝自ら土佐派の絵師に命じて描かせた紙本著色本多忠勝像や大多喜藩主松平氏所用の甲冑(紺糸威仏胴具足)、三葉葵紋が散らされ優雅な刀拵である金梨子地葵紋散打刀拵などが展示されています。


城下にある茶屋で食べた蕎麦はうまかった。機会があればまた伺いたい場所である。

■久留里城

別名「雨城」とも呼ばれる。築城後、三日に一度の割合で雨が降ったのでそう呼ばれたと古書(久留里記)に記されている。


【久留里城暦】

戦国期の十六世紀中頃、西上総地方は真里谷武田氏の勢力下にあり久留里城もその一族の居城でした。天文年間(1532~55)の後半になると、安房の里見義堯は 上総に進出し、本拠地を久留里城に移します。永禄七年(1564)、上総の国府台の戦いで、里見氏は北条氏に敗北、久留里城も一時、北条氏の手に落ちてし まいます。しかし二年後、里見氏は久留里城を奪還し、上総の大半と下総の一部を制圧します。その後、北条氏の勢力に押され天正五年(1577)、里見義弘は北条氏と和睦します。義弘の死後、家督を継いだ里見義頼は安房の岡本城を本拠とし、久留里城には城番が置かれています。
天 正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの際、里見氏は勝手な行動をとったという理由から上総の所領を没収されてしまいます。以後、関東は徳川氏の支 配となり久留里城には大須賀忠政が三万石、慶長七年(1602)には土屋忠直が二万石で入城します。江戸の土屋邸で生まれた儒学者の新井白石は、土屋家二 代目の利直に仕え十八~二十一歳までの青年期をこの久留里城で過ごしています。三代目の頼直の時、お家騒動が起こり廷宝七年(1679)、領地召し上げ、廃城となります。

約六十年後の寛保二年(1742)黒田直純が三万石の藩主となり、幕府から五千両を拝領し、三年の歳月をかけ城を再興しています。黒田氏の治世は、初代直純から約130年間続き、九代直養の時、明治維新を迎え、明治五年(1872)、城の建物は解体され、久留里城の幕は閉じられます。 

久留里城までの道のりは斜度がある坂道を登って行く為、思っていたより息が上がってしまった。城に行くにはヒールやサンダルではしんどいでしょう。

■千葉城

源頼朝の挙兵に際し、いち早く参陣して東国武士団の動向に大きな影響を与えた千葉介常胤の父千葉介常重によって1126年築城された城。亥鼻城
上総国大椎城から拠点を移して以来、千葉氏は約300年間この城を拠点として勢力を振るったが、城は1445年一族の内紛*1で落城した後、廃城となった。
城下町として栄え、鎌倉室町時代にかけて13代330年間に渡り房総の文化の中心で、関東では、鎌倉につぐ繁栄を誇っていました。千葉市街の南に東からのびる台地を利用し、北側に流れる都川を天然の水堀とし、西は急崖、南は入り組んだ谷津空堀とした要害であつた。
現在は、千葉市立郷土博物館という名の資料館になっている。
※千葉城とは - はてなキーワードより



市の中心部に聳える亥鼻城(千葉城)

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